***探鳥旅行記 エトロフの休日 ***

なごりを探しに
~埼玉大学野鳥研究会OBの道東探鳥旅行・風露荘再訪記~
文・写真:小林みどり
<プロローグ>

 1970年代中頃、まだB5版だった『野鳥』誌に、「ぼくの原野日記」というエッセイが連載されていた。これをリアルタイムで読んでいたという人は、現在の日本野鳥の会会員の中に、何人ぐらいいるのだろうか。

 作者は高田勝氏。野鳥の会の会員でなくても、その名前なら知っているという人は、多いだろう。後年、鳥の羽根の図鑑を著したり、海外探鳥旅行のガイドもしていた時期がある。

 高田氏は早稲田大学を卒業後、東京でのサラリーマン生活を経て1972年、北海道根室に移住する。「“野生動物保護・観察場”を作る」という夢をかなえるためである。その後、根室市内の牧場で働きながら準備を進め、1975年、ついに「フィールドイン 風露荘」という形で、夢の一歩を踏み出した。「ぼくの原野日記」は、彼が根室で暮らす中で出会った鳥や植物など様々な生きものの記録である。

『ニムオロ原野の片隅から』表紙
福音館書店 福音館日曜文庫 1979年刊「ぼくの原野日記」と牧場での生活を記した「鉄さんの大地で」が収録されている。
「ニムオロ」とは<樹木の繁茂している所>というアイヌ語で、「根室」の語源。
 埼玉大学の敷地のはずれに立ち並んでいた「サークル長屋」。その一角にあった「野鳥研究会」の部室で、「ぼくの原野日記」を夢中で読んだ。当時は、お金のない学生のこと、個人で会員になっている者は少なく、「埼玉大学野鳥研究会」として日本野鳥の会の一会員になっていた。毎月届く1冊の『野鳥』誌を、仲間で回し読みしていたのである。

 そこにつづられていたのは、鳥を見始めて間もない者にとっては、「空想の世界のパラダイス」 の出来事だった。ガンコウランやハクサンチドリがタンポポといっしょに咲いている、というのである(野鳥研の夏合宿は登山、と決まっていたので、前2種が高山植物であることは知っていた)。空を飛ぶオオセグロカモメを眺めていると、後ろでルリビタキがさえずっている、というのである!

 私だけでなく、野鳥研メンバーの多くが「根室」「風露荘」「高田さん」に魅せられ、憧れた。行きたい!いつか行きたい!フィールドノートの同じページに、オオセグロカモメ、ルリビタキ、ノゴマ、シマアオジetc と書き連ねたい!

 1977年7月、私を含む「野鳥研3年生女子」7名は、釧路航路で北海道に上陸、その翌日、ついに風露荘に泊まることができた。ほとんど一日中、春国岱を歩き回って鳥を見て、美味しい食事を楽しんで、夜になると風露荘に集まってくる近所の人たちとお酒を飲んで笑って騒いで…3日間を過ごした。

 その後、何度か風露荘を訪れる機会があったが、勤め始めてからというもの、北海道へ行けるような休暇が取れなくなった。一緒に遊びまわったメンバーも、それぞれ忙しくなっていた。そのまま、足が遠のいてしまった。

 そのうち、風露荘の夢を見るようになった。実際に行ったよりも多分、夢に出てきた回数のほうが多いだろう。
 
 何故か、楽しい夢ではなかった。風露荘の建物が遠くに見えているのに、歩いても歩いてもたどり着けない夢。ようやく玄関まで来たのに、満員だと断られる夢。宿帳に「今日見てきた鳥」の名前を全部書かなくてはならず、思い出せなくて困る夢…
行きたい場所に行けない、もどかしい夢ばかりだった。
 
 行きたくても行けない風露荘に、大切な何かを置いてきてしまっていた。
風露荘入り口の青いポスト
<旅へ>

 2013年9月21日 高田勝氏、、逝去。 68歳であった。

 その年の11月。彼の母校である早稲田大学の大隈会館で、「偲ぶ会」が開催されるという連絡が、埼大野鳥研の悪友・N君から来た。「大隈会館だから生物同好会関係の人ばっかりだろうけど。風露荘に来たことのある人は誰でも来ていいようだ。奥さんも来るっていうし、会いに行こう。他にも声かけてみる」

 生物同好会とは、1949年設立の早稲田大学のサークルであり、高田氏はここに所属していた。他にもアルパインツァーのM.T氏、A.H氏、日本野鳥の会で長年活躍されたK.S氏など自然系における“有名人”を輩出している会である。野鳥の会埼玉のリーダー、〇川氏もここの出身である。

 そして当日。大隈会館の一室に、錚々たるメンバーが集まった。Nの誘いで集まった埼大野鳥研OB4人は、その中で浮いていた、というよりは大御所たちの中に完全に沈んでいた。やはり、場違いだった…

 しかし、あちこちで数々の武勇伝や伝説が語り始められると、笑いが巻き起こり、「偲ぶ会」とは思えない、いや、高田氏を偲ぶ会は、こうでなくては、という楽しい雰囲気になってきた。その場にいた全員が「風露荘」「高田さん」というキーワードで、つながっていた。
 
 帰り際には奥様が、高田氏の最後の著書となった『ニムオロ原野 風露荘の春秋』を、参加者の一人一人に手渡してくださった。この奥様の、人の顔を覚える能力がすごい。もう超能力と言っていいほどである。私のことも、ちゃんと覚えていてくださった。あらためて、目頭が熱くなった。
奥様から手渡された『ニムオロ原野 風露荘の春秋』(青土社 2010年刊)の表紙
 この会を機に、野鳥研OBでまた風露荘へ行こう!という機運が高まった。

 と言っても、それぞれ忙しい状況は変わらない。「風露荘へ行こう」は単なる合言葉になりつつあった。

 「偲ぶ会」から丸4年がたとうとする頃。業を煮やしたN君から、また連絡が来た。「もう、具体的に日にちを決めよう!」

 2018年3月。苦節4年4か月。ついに風露荘行き決行の日を迎えた。旅の仲間は「偲ぶ会」に参加した4名、N君、T君、Oさんと私。41年前、一緒に風露荘に泊まったK子も加わり5名になった。
左から4人が、今回の旅の仲間たち。一番右はガイドのT氏。
落石クルーズで。
 8日、先発隊のN、T、O3名が出発。この日はどうしても都合がつかなかったK子と私は翌9日に憧れの風露荘目指して、羽田を発った。

 しかし、この旅は、最初からトラブルに巻き込まれることになる。 (続く)

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